あげそげコラム

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コラム掲載号:20221021

祐生飛躍の原点-乃木大将追悼資料展

 乃木希典(のぎまれすけ)は、日露戦争で第3軍司令官として旅順攻略戦の指揮を取り、戦後は学習院長に任じられ廸宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めました。明治天皇大葬の儀当日、自邸で静子夫人とともに自殺しました。

 軍人としての功績だけでなく、戦場や将兵・家族を気遣った情感あふれる漢詩には人柄が偲ばれ、後に陸軍軍人が模範とすべき「武人」とされました。二人の子息は日露戦争で戦死しており、悲運の将軍して国民の敬慕をを受けており、死後中央乃木会が創設されるとともにその忠節が讃えられ、関係地に乃木神社が創建されえています。

 また、各学校では、ロシア軍ステッセル将軍との会見をうたった文部省唱歌「水師営の会見」が歌われており、国民には乃木大将に対する近親感がありました。祐生は、日記に「武士の玉も黄金も何かせん 命にかえて名こそ惜しけれ」と詠み、早速祭壇を設けて冥福を祈りました。10月15日には校友会に働きかけて校友会主催の追悼会を計画し、祐生は祭文の原稿を作り、広告(ポスター)づくりも行いました。

 乃木大将を讃える気運は全国にあり、敬慕修養会が創設されると、早速祐生も入会しました。祐生は日頃尊敬している大山寺福井天章師や赤碕の佐伯友光氏に短冊揮毫を依頼していましたが、敬慕修養会に入会したことで会員名簿をもとに全国の人たちから追悼短冊を得て追悼会をしたいと思うようになりました。日記には大正2年7月7日から依頼が開始されており、8月16日には、「乃木大将欽仰会の規定を草す」とあるので、追悼会を欽仰会として全国から寄せられた短冊を並べ、神職会や募った会員による盛大な追悼会を構想し、実施しました。1周年祭は「有志の賛同を得、神官の協賛を得て荘厳に粛々と祭式が進行し、感涙下る」と記しています。祐生22歳でした。

 一方、祐生は平素経久寺に参山して住職と深い親交がありました。大正2年9月4日、経久寺に来鍚の臨済宗説教師石黒道一師から扇面揮毫を得ました。翌大正3年8月16日からは、経久寺を窓口に臨済宗の名刹、各派管長猊下を中心に扇面や半切への揮毫を依頼しました。乃木大将追悼2周年祭に向けての準備であったと思われます。  このようにして収集したのが乃木大将追悼資料です。この度、乃木大将没後110年を記念して、現在残されている短冊、扇面、掛け軸、色紙等を展示しました。これらの展示資料から、当時の世相や祐生の情熱を感じていただければ幸いです。  なお、乃木大将追悼の営みは、祐生にとって全国に知己を得て大きく視野を広げる契機となっていることから、テーマを「祐生飛躍の原点」としました。

 

(祐生出会いの館 野口 玲子)

 

 

【開催期間】令和4年10月15日(土)~12月5日(月)
【開館時間】9時~17時
【休館日】

火曜日

【入館料】

一般:300円、高校・大学生:200円
※15名以上団体割引あり
※身障手帳所持者と介護者1名無料

 【問い合わせ】

南部町祐生出会いの館 西伯郡南部町下中谷1008

TEL/FAX 0859(66)4755

祐生飛躍の原点-乃木大将追悼資料展

 

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